「ゴジラ、そしてカンフーハッスル」

okamoto20042005-01-04

わしは元旦にゴジラを観て、約1時間後、カンフーハッスルを観た人間だが、実はこの二つはかなり似ている。
これは同じ日に二作連続で観たから分かったことであり、これらを連続で観る人はかなり少ないと思うので詳細を書いてみることにする。
以下はネタバレありになると思われるので、この二作をこれから観ようと思っている人にはお勧めできない内容だ。
今回のゴジラと、カンフーハッスルの共通点は
1、その国の伝統的な特撮映画である。(怪獣映画とカンフー映画
2、細かいこと言わず、楽しんでくださいというメッセージが読み取れる。
3、様々な映画のシーンをパロ(パク?)っている。
4、子供(子役)がラストを締め、その撮り方が360度回転である。
ひょっとすると、4はわしの見たことのない映画のパロディだったのかも知れない。でも知らないので一応数え上げてみた。
同じ日に行くはずだった「ウルトラマン」は「カンフーハッスル」のあまりの素晴らしさに観に行く気が失せて飲みに行ってしまったので観ていない。なので、この文章はゴジラカンフーハッスルを誰にも頼まれてないのに比較してみるというどうでもいい主旨なので、特撮ヒーロー物は含まれないことをお断りしておく。
今日は1について、つまり共通点に重きを置いて語りたい。
カンフー映画と怪獣映画は似ている。
女の子に「戦ってばっかじゃん」と言われてしまう弱点も共通だ。
本来なら日本には「チャンバラ映画」というのがもっと先鋭的なカッコ良さでもって映画界に君臨しているべきなのだが、どうもそうはなってない。あれほど全世界の映画人がかつての日本チャンバラ映画の構図をパクリまくっているにも関わらずだ。(この問題はわし自身、舞台で殺陣をつける人間なのでいつか語ろうと思う)
そう、怪獣映画は日本のカンフー映画なのだ。同じように一時隆盛し、同じように廃れてしまった二つの存在。そして今、CGという技術革新によって復活を目指しているこの二つ。
娯楽としての、肉弾戦、スペクタクル、勧善懲悪。目指す所は全く同じと言っていい。スカっと面白ければそれでいいのだ。
そしてカンフー映画の映画的スペクタクルはそのスピードと、憎っくき敵に渾身の技を叩きつけるエモーショナルな部分にある。(主にスローモーションで表現されるとこね)その力と感情の溜まり具合、敵に炸裂した時の威力、爽快感が見た瞬間に理解できる。これがスカっと気持ちがいいのである。カンフーハッスルがこの要件を映画的に満たしているかは少しだけ疑問ではあるが・・。
一方、この部分に置いて怪獣はなかなか難しい。何故なら、脚本の問題もあるが今回のゴジラ、何が一番の威力なのか=一番痛い攻撃なのか、相手も怪獣なのでよく分からないのである。
この作品のゴジラは30匹は倒したんじゃないかというほどの連戦につぐ連戦。しかし手の短いゴジラは結局のところ尻尾を振り回すか放射能を吐くかしか出来ないのである。純粋に手数が少ない。これは、さぞかし特技監督は困ったことだろう。頑張りは見えたが、理解は出来るという範疇で酔えるほどではなかった、残念ながら。
そして一番のネックは、これ仕方ないんだけど、ゴジラは怪獣なので何考えてるか(憶測は出来るが)さっぱり分からないのである。エモーショナルな部分が分からない。これはつらい。思い入れの無い人間にはまるで「ウルトラファイト」のように(わかんないですね、すいません)怪獣が戦ってる絵面がつらつらと続くのみなのである。
しかし(仕方がないと言っときながら)仕方がないわけじゃない。同じ怪獣でも日本怪獣映画のミラクルであった平成ガメラシリーズはなかなかの物であった。(特撮の素晴らしさにガメラが空飛ぶだけで「そう!これ!ガメラってこうやって飛ぶんだよう!想像してたそのまんまが目の前にあるよう!うえーん!」などと号泣してたわしは客観的な感想など語れないのだが。)まあ、ガメラは人間を守るようプログラムされた生物兵器という感情移入しやすい設定があったので比較するのは間違ってる。だが、まるでヤクザ映画のように「ギロリン」と睨む目が描写されるだけで(ミエですね)ずいぶん違うと思うのだ、こういうのは。
純粋にアクションとして比べるなら、カンフー映画に比べて怪獣映画は退屈だと思う。いや、退屈なカンフー映画というのも星の数ほどある。だから廃れたんだし。それと比較すれば今回のゴジラは結構楽しかった。しかし、怪獣はスピードがカンフーの半分以下というのがどうにもつらい。これ、倍の速度で動いてくれるっていうんならわしは絶対来年も観る。ほんとに倍の速さじゃなくてもカット割とかで体感時間が短ければ全然OKだ。真の復活としてそういう革新を切実に望んでいるかつて少年だった男だ、わしは。
文句ばっかだが誉めを一つ。USA版ゴジラを日本ゴジラが一撃の下に粉砕するシーンは、ゴジラ史に残る名シーンだ。その直後の「だからマグロばっか食ってるヤツはダメなんだよっ」との敵のX星人首領(=北村一輝、キレててカッコいいぞ。どっちかっていうとカンフーハッスルに出てるべき突き抜け系の芝居してて好きだった)が叫ぶとこで場内が沸いたのが今回のゴジラの白眉だろう。
同じようにカンフーハッスルで「マトリクス・リローデッド」のうる星やつらをパクった(とわしは思ってる)エージェントスミスとの100人組手を本物のカンフー好きがやるとこれほどカッコ良く内容があるものになるんだぜ、毛党ども!と見せつけたクライマックスシーンは、同じアジア人として胸がすく思いがした。チャウ・シンチーと同じ時代に生きてて本当に良かった。
そうなのだ。この二つの映画は実はハリウッドがアジア映画を表面的にパクってるのに対する黄色い猿の「分かってねえんだよ、お前らは!」とのメッセージが含まれている。今回は書かないがゴジラなんてマトリクスその他のハリウッド映画のオンパレードだ。だが、ゴジラの監督はハリウッドをパクる際に捻りが足りないというか、そのまんますぎるというか、元ネタに負けてるというか・・・お金ないからかもしれないけど・・・同じ日本人として恥ずかしかったです。正直に。

今日の結論としては、この二つの作品はアジアの国の伝統的娯楽映画を復活させるべく、作られた映画だということだ。片方はカンフー、片方は怪獣。どうにも女の子受けしないこの素材をどう料理するか。今回は圧倒的にカンフーの勝ちだ。
いつの日か怪獣映画を好んで観に行く女の子が出るような、そんな楽しげな未来を切実に祈っている。かつて少年だった男として。

続く。<ほんとに?・・たぶん嘘です。